著者は教育社会学者、大阪大学教授・志水宏吉先生。公立学校のサポーターを自負し、現場で奮闘する先生たちに寄り添った一冊です。
教育格差が社会問題化し、「親ガチャ」なる言葉がメディアから多くきかれるようになりました。学校現場も一昔前と比べて、色々なバックボーンを背負った子どもたちが増えてきたように思います。
その結果として、学力の二極化。できる子とできない子に分かれてしまっているということです。確かにできない子は、勉強をサボろうとしてしまう子が多い印象です。だって、できないのだから。その子の努力の責任にしてしまうのは簡単ですが、それは本当に正しいのでしょうか。
「努力すれば、夢は叶う。」
学校は、本当にそのような場所になっているのでしょうか。
その言葉を隠れ蓑にして、富める者がさらに豊かになるための社会的装置になっていないでしょうか。
学校が、そこで過ごす全ての子どもたちにメリットを与えることができる場所になるといいですね。いや、少しでも近づけていきましょう。そのために学校や教師ができることが書かれている良書です。
では、本文の中から、タメになった部分をチェックしていきます。(以下本文引用)
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「社会派教師」とは?
本書で言う社会派教師とは、「差別や不平等や格差といった社会問題に関心をもち、教育の力によってそれらを克服し、よりよい社会を築いていこうとする意志をもつ教師」のことである。
本当の気持ちは「教育社会学的教師」を生み出したいということなのだが、それでは何のことかわかりにくいだろうから、ここでは「社会派教師」という言い方を採用する。
さて、その社会派教師は以下の六つの特徴を持つ教師のことである。
① 尊敬できる師を持つこと
② 子どもが好きなこと
③ 学び続ける意欲があること
④ 公正原理を大事にすること
⑤ つながりの力を信じること
⑥ 社会を変える志向性を持つこと
このうち前の三つは、およそすべての教師に必要と思われる資質に言及するものであり、後の三つが「社会派」と呼ばれるにふさわしい者が備えるべき要素である。
「公正」と「卓越性」
教育社会学では、ある教育システムのパフォーマンスを評価する場合に、「公正」概念を「卓越性」(excellence)という概念とペアで扱うことが多い。公正が、「すべての子どもに十分な教育機会を提供し、適切な教育達成を保障できているか」にかかわる概念であるのに対して、卓越性は、「すべての子どものポテンシャルを最大限に伸ばすことができているか」という点にかかわるものである(志水・鈴木 2012)。例えば学力の問題に引き付けて言うなら、「すべての子を伸ばし平均点をあげる」(=水準向上)というのが卓越性の視点となり、「さまざまな集団間の点数のバラツキを小さくする」(=格差是正)というのが公正の視点となる。ここ十年以上にわたって学力格差研究を続けてきた私たちの現時点での結論は、日本は公正の考え方にもとづく働きかけが極端に薄いというものである(志水 2020)。すなわち、学力向上のかけ声が大きいわりには、学力の階層差や男女差などに対する関心は低く、それを是正するための政策や取り組みは諸外国に比べると驚くほど低調だということである。端的に言って、日本の教育関係者の関心は「卓越性を伸ばすこと」に目が向きすぎていて、「公正を追求する」という視点が驚くほど弱い。
「格差」の何が問題か?
「格差社会」という言葉には、どのような意味がこめられているのか。さまざまな議論を総合すると、そこでは二つのニュアンスが強調されている。第一には、貧富の格差が広がっているという点。これは最も基本的な論点であり、今世紀に入って、この意味での格差は明らかに広がっているというのが定説となっている。第二には、世代間の再生産傾向が強まっているという点。つまり、「豊かな層は豊かな層、貧しい層は貧しい層」という固定化傾向が強まっているということである。
「ペアレントクラシー」という言葉がある。「身分や家柄」がカギを握るアリストクラシー、「能力と努力」にもとづくメリトクラシーに対して、ペアレントクラシーでモノを言うのは「富と願望」である。「富」とは家庭が所有する各種の富、「願望」とは保護者が子どもの教育に対して持つ願いや望みのことである。要するにペアレントクラシーとは、どのような親を持つかが、子どもの人生を決めるうえで大きな影響を持つ社会のことである。注意しておかねばならないのは、メリトクラシーとペアレントクラシーは別物ではないということである。メリトクラシーの発展形、あるいは「行きつく先」がペアレントクラシーだと見ることができるのである。ビーカーのなかの粒子の移動は、著しく少なくなっているようだ。豊かな家庭の子どもたちは、学校に適応する能力や努力の度合いも貧しい家庭の子どもたちよりおしなべて高い、と見られる事態が出現するようになっている。「富と願望」という言葉で表現される家庭環境の格差が、能力形成にも、努力し続ける姿勢にも大きな影響を与える時代が来ているのだ。
「ペアレントクラシー」を是正する筋道とは?
ペアレントクラシー、言葉を換えるなら「行き過ぎたメリトクラシー」を是正するためにはどうすればよいだろう。教育の役割という側面から考えた場合、私には、二つの筋道が重要だと思われる。
一点目は、恵まれない家庭の子どもに、メリトクラシーの荒波を泳ぎ切る基礎的な泳力を身につけさせることである。適切な泳ぎ方(能力)と泳ぎ切る精神(努力)を学校教育のなかで獲得してもらうこと。
二点目は、すべての子どもにメリトクラシーというゲームのルールを、よりよいものにしていくような志向性を身につけさせることである。要するに、「『できる』ということだけが価値を持つのではない」、「一人ひとりの持ち味を生かして素敵な社会(学級、学校、地域など)をつくっていきたい」などといった気持ちや態度を持つ子どもを育てたいということである。言うまでもなく、これは、クラスやその他の仲間と学校生活を送る日々のプロセスのなかで育まれていくものである。
格差を乗り越えることができる学校とは?
出発点は学力問題にあった。子どもたちの学力低下と呼ばれる現象の実体は「学力格差の拡大」にあることを見いだした私たちは、欧米の「効果のある学校」研究という流れを参考にし、日本の学校への適用を図った。「効果のある学校」とは、「教育的に不利な環境のもとにある子どもたちの学力を下支えしている学校」(鍋島 2003)のことである。その私たちの研究の到達点が、スクールバスモデルである。
「効果のある学校」(effective schools)は、何らかの学力テストの結果を分析して見いだされる「実態」概念であるのに対して、私たちがつくった「力のある学校」(empowering schools)という言葉は、「すべての子どもをエンパワーする学校」という意味を持つ、あるべき姿を追求する「規範」概念である。「エンパワー」という言葉にも注釈が必要であろう。人権教育のジャンルでよく使われる言葉で、「その人の内なる力に気づく(気づかせる)」ことを意味する。すべての子どもたちをエンパワーできる学校が「力のある学校」なのであり、そうした学校では自ずと「しんどい層」の基礎学力の水準も押し上げられているというのが、私たちの想定である。本書の用語を使うなら、「力のある学校」とは、「公正原理を大切に考え、一人ひとりの子どもへの適切な働きかけを欠かさない学校」ということになるだろう。
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「格差」それ自体は、大なり小なりできてしまうのが資本主義の社会ですが、ここで問題なのが「格差の再生産」。例えば、貧困家庭の子どもの将来は、貧困状態から抜け出せないことです。子どもの将来は、本人の「能力」や「努力」ではなく、親の「経済状況」と「願望」が形作ってしまうという問題です。学校が努力すれば夢を叶えられる場所となるように、教育社会学的な知見から学校を再構築していく必要があるのではないでしょうか。「公正」と「卓越性」の同時追求こそが今求められるべき教育の在り方だと改めて感じさせられました。
教育社会学者としてにクールな目と公立学校のサポーターを自負するホットな心で書かれた志水先生の他の書籍もおすすめです。ぜひ、一読をお勧めします。